“滑稽噺の名手”と言われる落語家の三遊亭小遊三さん。
そんな三遊亭小遊三さんですが、実は卓球の腕前が相当なものだということをご存知でしょうか?
三遊亭小遊三さんの卓球歴は長く、その腕前は素人離れしているそうです。
意外な一面である卓球との関わりについてや、始めたきっかけ、実績などについても知りたいところです。
落語と卓球、一見すると関係なさそうな2つの世界で活躍する三遊亭小遊三さんの魅力を知りたいですよね。
そこで今回は、
- 三遊亭小遊三が卓球を始めたきっかけ
- 三遊亭小遊三の卓球実績と輝かしい成果
- 落語家と卓球の意外な関係性
主にこの3つについて迫っていきます。
それでは早速本題に入りましょう!
三遊亭小遊三が卓球を始めたきっかけ

三遊亭小遊三さんが、卓球をはじめたきっかけは何だったのでしょうか?
調べたところ、三遊亭小遊三さんが卓球を始めたきっかけは、意外にも身近なところにありました。
幼い頃から縁があって、物心が付いた時にはもうラケットを握っていた。兄と姉が卓球部だったから、家にあったんだろうね。
出典:スポニチアネックス
小遊三さんにはお兄さんとお姉さんがいますが、特に10歳年上のお兄さんの影響が大きかったようです。
お兄さんは、中学・高校と卓球部に所属しており、その影響で小遊三さんは幼少期からラケットに親しんでいたそうです。
小遊三さん本人も、「小さい頃からラケットがおもちゃ代わりだったんです」と語っています。

兄の姿を見て育った小遊三さんにとって、卓球は自然と身近なスポーツだったのでしょう。

しかし、落語家になった後は一時期卓球から離れたそうです。
再び卓球を始めるきっかけとなったのは、意外にも落語界の先輩である林家こん平師匠からのお誘いだったとのこと。

小遊三さんは次のように回想しています。
「落語家になってしばらく卓球はやってなかったけど、林家こん平師匠から『らくご卓球クラブをつくるから手伝ってくれ』と言われて、久しぶりにラケットを…」
1987年に「らくご卓球クラブ」を立ち上げる際、こん平さんから「手伝え」と言われたと明かし、「こん平師匠が監督、私がヘッドコーチとして一緒に活動しました」と述懐。
出典:サンスポ
こうして、落語家としてのキャリアを積みながらも、卓球との縁は途切れることなく続いていったのです。

三遊亭小遊三の卓球実績と輝かしい成果

三遊亭小遊三さんの卓球の腕前はどれくらいなのでしょうか?
調べたところ、三遊亭小遊三さんの卓球の腕前は、決して侮れるものではありません。
学生時代から優れた成績を収めており、その実力は本物のようです。
中学生時代は、山梨県で個人でも団体でも準優勝したとのこと。
中3では、山梨県で個人でも団体でも準優勝した。
出典:スポニチアネックス
高校時代には、山梨県立都留高等学校で卓球部のキャプテンを務め、県内2位という好成績を残したそうです。
高校でも続けて卓球の練習に打ち込んだ。高校3年生の時に国体の山梨県代表には選ばれたりしたよ。
出典:スポニチアネックス

さらに、明治大学でも卓球部に所属し、その腕を磨き続けたそうです。
学生時代の輝かしい実績として、山梨県選手権で優勝した経験もあるとのこと。
明治大学に進学後、家族からは「ちゃんと勉強しろ」って言われていたけど、やっぱり卓球部に入部した。でも大学じゃほとんど通用しなくて、大学2年のときに山梨県の大会に出て優勝して、そこで区切りを付けたね。今思えば、学生時代は真剣に取り組んだね。
出典:スポニチアネックス

この経験が、後の卓球人生にも大きな影響を与えたことでしょう。

落語家になった後も、小遊三さんの卓球への情熱は衰えることはなかったみたいです
1998年からは世界ベテラン卓球選手権大会に出場し、驚くべき成績を残しています。
50代の部では、シングルス決勝トーナメントに5回も進出。
さらに、ダブルス決勝トーナメントにも3回進出という素晴らしい成績を収めています。
1998年から、世界ベテラン卓球選手権大会に出場。50代の部シングルス決勝トーナメントに進出(5回)、50代の部ダブルス決勝トーナメント進出(3回)。
出典:システムブレーン

特筆すべきは、2004年の横浜大会での活躍です。50代の部ダブルスでベスト16入りを果たし、その実力を世界に示しまています。
小遊三さんの卓球への貢献は、競技だけにとどまりません。
地域貢献にも力を入れているそうで、山梨県大月市では「三遊亭小遊三杯 大月ラージボール卓球大会」が開催されています。

この大会には小遊三さん自身も選手として参加し、ダブルスでは大月市卓球連盟の橋本会長とペアを組んで3位入賞を果たすなど、その実力を遺憾なく発揮したとのことです。
落語家と卓球の意外な関係性

三遊亭小遊三さんにとって落語家と卓球は、どういう関係なのでしょうか?
落語家と卓球、一見すると関係なさそうな2つの世界ですが小遊三さんの人生においては密接に結びついています。
実は、小遊三さんが落語家への道を選んだきっかけも、卓球と深い関わりがあったようです。
三遊亭小遊三さんは、1966年の大学2年生の時に山梨県の卓球選手権で優勝したにもかかわらず、国体出場に進出できなかったことで、「(卓球は)ここまでだな」と自身の卓球の実力を見限り、卓球ではメシが食えないから大学を出たらどうするのか考えるようになったとのこと。
卓球ではご飯を食べていく実力がない。就職を考えたとき、ふと、頭に浮かんだのが、落語でした。
出典:フレグラボ

その後、大学では「学園紛争」の時代に入り、授業も卓球の練習もなくなり、気軽に足を運んだ新宿にある末廣亭という寄席で小学生のころにラジオで聴いてやっていた落語と再会、在学中に六代目三遊亭圓生の弟子入りを志願し、落語界へ転身したそうです。
大学紛争でキャンパスに入れず、新宿でふらりと寄席に入ったのがきっかけで落語に夢中になった。
出典:スポニチアネックス

卓球での経験が、人生の大きな転機となったことがうかがえます。
しかし、落語家になった後も卓球との縁は続きました。
「らくご卓球クラブ」の会長を務め、1987年から続く活動を行っています。
落語と卓球を融合させた独自の活動は、多くの人々を魅了しています。

さらに、小遊三さんの卓球の腕前は、思わぬところでも活かされました。
2021年の東京オリンピックでは、その卓球の実力が認められ、聖火ランナーに抜擢されたのです。

しかし、三遊亭小遊三さんは、1964年の高校3年生の時の東京オリンピックでも聖火ランナーを務めてます。

なお、三遊亭小遊三さんは、1998年の長野冬季オリンピックの時も“伴走者”として東京都内を走ったらしく、結果的には3回も聖火ランナーを務めたことになります。
凄いですよね。

現在78歳の小遊三さんですが、今でも卓球への情熱は衰えていません。
らくご卓球クラブの新春初打ち会に参加したり、若手卓球選手との交流を楽しんだりと、精力的に活動を続けています。

卓球選手の平野美宇さんとの交流や、福原愛さんとのラリーを披露するなど、世代を超えた卓球愛好家たちとの交流も盛んです。

また、その経験を活かし、東京オリンピックやパリオリンピックでの卓球競技について解説やコメントを行うなど、卓球界にも貢献し続けています。
まとめ
今回は、三遊亭小遊三さんの卓球人生について、始めたきっかけから現在に至るまで、実に波乱万丈であることをお伝えしてきました。
兄の影響で始めた卓球が、落語家への転身のきっかけとなり、そして落語家になった後も続けている生涯スポーツとなっています。
学生時代の輝かしい成績、世界大会での活躍、地域貢献、そして落語との融合など、小遊三さんの卓球への取り組みは多岐にわたります。
小遊三さんにとって卓球は、単なる趣味を超えた人生の重要な一部となっているのです。
5歳頃から始め、高校・大学と続け、一度は区切りをつけたものの、落語家になった後も続けている姿勢は、まさに生涯スポーツの模範と言えるでしょう。
三遊亭小遊三さんの卓球への情熱と実績は、年齢や職業に関係なく、好きなことを続ける大切さを私たちに教えてくれています。
これからも、落語と卓球の両方で頑張る三遊亭小遊三さんの活躍を見守っていきたいですね。
それでは、ありがとうございました。
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