大相撲の世界で、その努力と実力で注目を集める力士がいます。
中卒から相撲の道に入り、関脇まで上り詰めて、多くの人々に勇気と感動を与えている明生関。
そんな明生関ですが、どのような相撲人生を送っているのか気になりますよね。
また、叩き上げ力士としての苦労話や活躍エピソードなども知りたいところです。
そこで今回は、
- 中卒叩き上げ力士・明生の相撲人生
- 明生の苦労話:中卒からの挑戦と怪我との闘い
- 明生の苦労話:活躍エピソードと電車通勤
主にこの3つについて迫っていきます。
それでは早速本題に入りましょう!
中卒叩き上げ力士・明生関の相撲人生

明生関はどこの出身で、何歳から相撲を始めて、プロになったのはいつからなのでしょうか?
明生こと川畑明生(かわばた めいせい)は、1995年7月24日に鹿児島県大島郡瀬戸内町で生まれました。

相撲が盛んな奄美大島で育った彼は、幼少期から相撲との縁が深かったようです。

5歳の時に地元の相撲道場に通い始めた明生少年は、小学生時代から頭角を現していたとのこと。
特に、第20回全日本小学生相撲優勝大会で6年生の部で優勝するなど、早くから才能を発揮していたのですね。

興味深いのは、明生関が小学3年生の時に「稼いで親孝行したい」という思いから大相撲を目指すことを決意したことです。
家族や周囲の人間の存在を励みに稽古を重ねて3年生の頃には力士を志すようになり、6年次の全日本小学生相撲優勝大会では優勝の実績を持っている[5]
出典:weblio辞書
当時、自身とは正反対の気性を持つ元横綱・朝青龍に憧れていたといいます。

中学時代も相撲部に所属し、全国レベルの実力を身につけていった明生少年。

そして2011年(平成23年)、中学卒業後すぐに立浪部屋に入門し、プロの相撲人生をスタートさせたのです。
ただし、瀬戸内町立篠川中学校在学中は全国大会出場経験はあっても[6]タイトル獲得などの実績が無かったことでプロでは通用しないかもしれない不安を抱え、高校進学を検討したこともあったが父親に一喝されて大相撲入りの決意を固めた[4]。
出典:weblio辞書

明生関の苦労話:中卒からの挑戦と怪我との闘い

明生関は、中卒で相撲界に入りましたが、やはり苦労はあったのでしょうか?
調べてみたところ、中卒で相撲界に飛び込んだ明生関の道のりは、決して平坦ではなかったようです。

現在では少なくなった「中卒たたき上げ」の道を選んだ彼は、様々な困難に直面することになります。
入門直後の2011年(平成23年)は、八百長問題で春場所が中止されるという異例の事態が起こりました。

そんな中、明生関は同年5月の技量審査場所で初土俵を踏みました。

相撲界全体が揺れる中でのデビューは、彼にとって大きなプレッシャーだったことでしょう。
さらに、明生関は腰痛などの怪我に苦しみながらも、地道に力をつけていきました。
腰のヘルニアを患い幕下に定着することはできず、1年半ほどは三段目との往復をしばらく続けた。ヘルニアを理由に引退しようとも思っていたが、父からは「そんなもんか。好きにしろ! やめたら家には戻ってくるなよ!」と突き放され、心が折れそうになった時は「気持ちが弱いんだ!」と叱責された。その後健康な肉体を取り戻し、独学で食事法やプロテインの摂取法を学んだ結果として体重を増やすと2014年5月場所に三段目で6勝1敗の大勝ちをしたのを最後に幕下へ定着。
出典:weblio辞書
怪我との闘いは力士にとって避けられないものですが、若くして相撲界に入った明生関にとっては特に厳しい試練だったはずです。

しかし、彼の努力は実を結びます。
2016年(平成28年)九州場所で新十両に昇進し、2018年(平成30年)の名古屋場所では新入幕を果たしました。

中卒から7年という短期間で幕内力士になったのですね。
番付を目にして「うれしい。一番上の段に名前があって『すげー』って思った」と笑顔を見せた。
出典:日刊スポーツ
明生関の師匠である立浪親方(元小結旭豊)は、「何も言わなくても努力する。真面目というか、真面目すぎる」と評価しているそうです。
2019年(令和元年)の夏巡業では稽古し過ぎて、横綱鶴竜から「無理してやってもダメだ」と諭されて初めて休むほど、稽古熱心な力士だったのです。
明生関の苦労話:活躍エピソードと電車通勤

明生関の努力は、結果として表れていますか?
調べたところ、明生関の努力は、着実に結果として表れています。
2021年(令和3年)7月場所で小結昇進を果たし、同年9月場所から11月場所にかけては西関脇として土俵に立ちました。

奄美大島出身力士としては29年ぶりの三役昇進という快挙とのこと。
新関脇の明生が意欲「上に上がることを常に頭の中に入れて」
出典:日刊スポーツ
「焦らずコツコツと稽古を重ねたことが結果に表れた」と語る明生関。
その名前の通り、「明るく生きる」という意味を込めた本名がそのまましこ名になっており、誠実で真面目な人柄で知られています。

そんな明生関の特徴的なエピソードとして、「電車通勤」が挙げられます。

立浪部屋は茨城県つくばみらい市にあり、両国国技館まで1時間以上かかるにもかかわらず、明生関は関取に昇進した後も電車で通い続けていたようです。

これは渋滞による遅刻を防ぐためだったといわれています。
2019年(令和元年)の秋場所では一時優勝争いのトップに立った時でさえ、電車通勤を続けていたそうです。
「本当は車で行きたいです(笑)。正直、電車はいやです」と本音を漏らしながらも、実用性を重視して電車通勤を選んでいたのですね。
帰宅ラッシュ時には立ちっぱなしになることもあったという明生関。

秋場所中には、つくばエクスプレスの車内で中年の男性から「頑張ってるね。応援しています」と声をかけられたり、総武線のホームで女性ファンから激励を受けたりしたこともあったとのこと。
「めったにないので。ちょっと有名になったんだな」と素朴な雰囲気で喜んでいたというエピソードは、明生関の人柄をよく表しています。
所属する立浪部屋は茨城県つくばみらい市。両国国技館までの電車通勤は変わらない。往復約2時間の道中は、音楽を聴いてリラックスしているという。
出典:サンスポ
まとめ
今回は、中卒叩き上げ力士である明生関の苦労話と活躍エピソードについてお伝えしてきました。
彼の相撲人生は、努力と真摯な姿勢が実を結ぶことを示す素晴らしい例といえるでしょう。
幼少期から相撲に打ち込み、中卒で相撲界に飛び込んだ明生関。
怪我や苦難を乗り越え、関脇まで上り詰めた彼の姿は、多くの人々に勇気を与えています。
電車通勤という独特のエピソードも、彼の真面目さと実直さを表すものとして、ファンの心を掴んでいます。
明生関は2024年3月のインタビューで「引退するまで横綱を目指す」と意欲を見せています。
中卒たたき上げから関脇まで上り詰めた彼の今後の活躍に、大きな期待が寄せられています。
それでは、ありがとうございました。
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